第143回秋田県種苗交換会                    

種苗交換会概要

明治11年(1878年)9月、県勧業課長樋田魯一が主催して、秋田市の浄願寺を会場に第1回の勧業会議が開催された。
石川理紀之助翁は、その会議の推進役となり第2回目は幹事に就任している。この会議に出席したのは、農事に堪能な、民間から選ばれた45人の勧業係員で、その際、由利郡平沢の佐藤九十郎から「種子交換の見込書」が提議され、これを樋田会頭が採用、歴史的な種苗交換会の発端となった。

沿革

明治11年(1878年)9月、県勧業課長樋田魯一が主催して、秋田市の浄願寺を会場に第1回の勧業会議が開かれた。石川理紀之助翁はその会議の推進役となり第2回目は幹事に就任している。この会議に出席したのは、農事に堪能な、民間から選ばれた45人の勧業係員で、その際、由利郡平沢の佐藤九十郎から「種子交換の見込書」が提議され、これを樋田会頭が採用、歴史的な種苗交換会の発端となった。

同15年からは、勧業会議(勧業談会・現在の談話会の前身)と種子交換会を合体して名実ともに「秋田県種苗交換会」と呼称された。

この間、明治12年、県は地域指導に当たった四老農、大館の岩沢太治兵衛、秋田の長谷川謙造、雄勝の高橋正作、湯沢の糸井茂助を勧業御用係りに任命。翌13年には「夫れ道を学ぶに友なかるべからず」の趣意で始まる歴観農話連が設立され、石川理紀之助翁が催主(会頭)となっている。

明治19・20年は、県主催による開催があやぶまれ、また22年も休会となるところを、歴観農話連が後援し、同連の会員が各々私費を投じて交換会を存続させている。こうした結果、種苗交換会は日清・日露・太平洋戦争中といえども、一度も休会することなく開催されている。

この継続の精神こそ、秋田の「農の心と技」を、話し合い・ふれあい・助けあいの三心によって広めようとする熱意に他ならない。

思いおこしてみても、数里先の隣村、農家同士の交流もない閉鎖社会というのが、明治初期の県内農村の実情であった。これをお互い公開し、話しあい、見せあうことを強く進めたのが石川理紀之助翁と森川源三郎翁で、歴観農話連の同志もこれを支援したのだった。

明治33年(1900年)、県農会が法定設立され、種苗交換会の主催者は全面的に、県から県農会へ移管されることになった。交換会会頭は小西文之進、小山巳熊と変わり、同41年から齋藤宇一郎翁に引きつがれた。談話会員からの要望を入れて、地方開催に踏み切ったのは、明治42年からのことである。

これが現在まで忠実に順を逐って開催される端緒となったが、このあと会頭は池田亀治、佐藤維一郎に次いで片野重脩となり、新穀感謝祭がとり行われている。

時代は下って、戦後農業団体の再編とその育成に尽力した武田謙三、民主化された県内農協の新生・再建への礎を築いた長谷山行毅の下で、農業(事)功労者表彰、交換会史の編纂がなされた。農業団体の再編に尽力した木内主計、土肥大四郎、「あきたこまち」の名声確立と広域JA合併に尽力した佐藤秀一、合併後のJA改革に努めた小松正一、菅原稔、集落営農組織の設立に尽力した澁川喜一、JAグループ秋田の組織・財務基盤強化と営農・経済事業改革に尽力した木村一男等は、農業・農村が大きな転換期を迎えるなか、時代に即応した交換会の継続に意を注いだ。
こうして主催者は、県及び農話連から明治34年に県農会、昭和19年に県農業会、昭和23年に県生産農協連、同29年からは県農協中央会と移り、開催地も秋田市~北秋田~平鹿~山本~仙北~鹿角

~南秋田~雄勝~由利とほぼ10年ごとに開催されている。

種苗交換会では、明治13年からの審査を加えて農産物の展示・交換が今日に及んでいるが、現在出品物は水稲・畑作物及び工芸作物・果樹・野菜・花き・農林園芸加工品・畜産品及び飼料・林産品の区分で出品、選賞を行っている。

また、主要行事である談話会は県内農家等の実践者で構成され、その体験や意見発表を通し、本県農業の振興や農家生活の向上、農協運動の発展に大きく寄与してきた。

例年、新穀感謝農民祭とともに開幕し、農業功労者の表彰や農産物の審査結果の公表、さらに談話会や交換会関係者の物故者追悼会が営まれ、最終日の褒賞授与式によって閉幕している。(文中 敬称略)